『徒然草』第百五十段 能をつかんとする人の話を聴いて

『徒然草』これ何と読むか知っていますか?

「つれづれくさ」と読みます。

ご存じの方には失礼しましたですけど😀

そんな昔の随筆が何か?という感じなんですけど・・・

これは1317年―1331年の間に書かれた鎌倉時代のものです。

この時代に書かれたものですけど、いい意味の文章があるんです。

まずは原文をご紹介します

能をつかんとする人、
「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得てさし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、

かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。

いまだ堅固(けんご)かたほなるより、
上手の中にまじりて、毀(そし)り笑はるるにも恥ぢず、


つれなく過ぎて嗜む人、天性その骨(こつ)なけれども、
道になづまず、みだりにせずして年を送れば、

堪能(かんのう)の嗜まざるよりは、

終(つい)に上手の位にいたり、徳たけ、人に許されて、

双(ならび)なき名を得る事なり。

天下のものの上手といへども、

始めは不堪(ふかん)の聞えもあり、

無下の瑕瑾(かきん)もありき。

されども、その人、道の掟正しく、これを重くして放埓(ほうらつ)せざれば、

世の博士にて、万人(ばんにん)の師となる事、諸道かはるべからず。

徒然草 現代語訳つき朗読

この意味を意訳すると

何か学んでうまくなろうとする者は、うまくなってから人へ言った方がいいだろう!と考えるけど。

その考えではうまくならない。

うまくなる人は、下手なうちから上手い人に混ざり、失敗し、笑われ、そしられても努力し、守破離のごとく学び続けれはやがては名人、師になるものだ。

という意味です。

このこと、今でもまったく当てはまりますね。

下手なので、まだ人前には出れないとか、

まだまだと謙遜ばかりしていても上達はできない

何かに打ち込んでいく過程でも

どんどんと人に見せて

批評を受けても続ける人がどんどんとうまくなっていく

すべてに通ずるものではないですかね😁

己書は上達を目指すものではないです

書きあがった作品は家の人に見せたくなります。

家に帰って

自分の子供たちへ

または

ご主人、奥様へ

ねえねえ!見てよ、これ、と言いたくなりますよ😁

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